2025,06,01, Sunday
歴史の勉強が始まるとすぐ、縄文時代の住居は「竪穴(たてあな)住居」であったと習います。この竪穴住居、必ず暗記させられるわりに、イメージがわかないものです。なかには、モグラの穴みたいなものを想像する方もいるのではないでしょうか。今回は、これについて調べてみます。
竪穴住居とは
穴居生活という言葉もあるように、昔の人は岩陰や洞窟に住んだり、開けた土地でテントのように木を組んで暮らしていました。洞窟のことを、横穴式の住居と呼ぶこともあります。
しかし、時代が下るにつれ、人々は新たに住みやすい住居を工夫して作るようになりました。この住居を、古いものと対比して、竪穴住居と呼ぶことにしたわけです。
竪穴住居の作り方
ところで、竪穴とは言っても、縦長の深い穴を掘ったわけではなく、平均的な深さは70~80センチ程度だそうです。ですから、お盆のような、平たい窪みを思い描いた方が近いでしょう。
まず、地面を掘って平らにし、掘り出した土を周りに積んで固めます。次に、周囲に穴を掘り、4~6本の木(柱)を立てます。
その上に横材を渡して屋根とし、土を載せたり、茅(かや)(ススキ、チガヤ、ヨシなど)を集めて、屋根を葺いていきます。
十分な道具もない当時の人々にとって、できるだけ少ない材料で、手早く住みやすい環境を整える画期的な発明だったのでしょう。
竪穴住居の規模
さて、考古学の方では、建物を床の高さによって、次のように分類するそうです。
平地建物 床が地面と同じ高さ
竪穴建物 床が地面より低い
高床建物 床が地面より高い
ということは、立派なお屋敷が建っていたとしても、床が地面より数十センチ下に位置していれば、竪穴住居と呼ばれるわけです。
実際、青森県の三内丸山遺跡では、最大で長さ32メートル、幅10メートルの建物跡も見つかっているそうです。
その後の竪穴住居
竪穴住居は、日本では広く長く使われました。縄文時代の遺跡は全国 800ヶ所に及び、1000を越える住居跡が存在します。
そして、縄文時代のみならず、奈良・平安時代以降まで使われました。時代が下るにつれ、床の位置が上がってきて、竪穴住居は消滅します。
しかし、土間、炉、掘立柱、茅葺き、芝棟、土壁など、竪穴住居で培われた様式・技術は、後の家屋に受け継がれていきます。つまり、竪穴住居は、日本の農家や民家の出発点であったと言えるのです。
「柱立ち」と「壁立ち」
話は変わりますが、竪穴住居では、柱と柱のあいだに横材が組まれ、その上に屋根がのっています。柱が屋根を支える構造であり、それが私たちには当たり前のように思われます。
しかし、外国では必ずしもそうではなく、壁を分厚く頑丈に作って、その壁が屋根を支える構造の方が主流だそうです。そこで、以下のように呼び分けることにします。
「柱立ち」 柱が屋根を支えている
「壁立ち」 壁が屋根を支えている
「柱穴探し」考古学
日本では、「柱立ち」の建物が主流です。木材が豊富にあることが影響しているでしょう。これによって、窓が多く、風通しのよい住居を作ることができます。壁の厚さは無視できるほど薄くなります。
日本の考古学の遺跡発掘は、まず「柱穴探し」から始まるそうです。柱を立てるために掘った穴の配列を調べ、建物の輪郭を決定します。
「壁探し」 考古学
これに対し、外国では、分厚い石の壁や日干しレンガで作られた住居が主流だそうです。周囲の壁を積み、屋根だけは木材を渡し、その上にまた土を載せるという形で家を作ります。
壁の厚みは50センチほどになることもあり、壁をくりぬいて収納スペースを作ったり、暖炉を作ったりすることができます。柱はなくても構いません。
ですから、これらの地域の遺跡発掘は、「壁探し」から始まるということです。
参考)『遺跡が語る日本人のくらし』佐原真著
まず、地面を掘って平らにし、掘り出した土を周りに積んで固めます。次に、周囲に穴を掘り、4~6本の木(柱)を立てます。
その上に横材を渡して屋根とし、土を載せたり、茅(かや)(ススキ、チガヤ、ヨシなど)を集めて、屋根を葺いていきます。
十分な道具もない当時の人々にとって、できるだけ少ない材料で、手早く住みやすい環境を整える画期的な発明だったのでしょう。
竪穴住居の規模
さて、考古学の方では、建物を床の高さによって、次のように分類するそうです。
平地建物 床が地面と同じ高さ
竪穴建物 床が地面より低い
高床建物 床が地面より高い
ということは、立派なお屋敷が建っていたとしても、床が地面より数十センチ下に位置していれば、竪穴住居と呼ばれるわけです。
実際、青森県の三内丸山遺跡では、最大で長さ32メートル、幅10メートルの建物跡も見つかっているそうです。
その後の竪穴住居
竪穴住居は、日本では広く長く使われました。縄文時代の遺跡は全国 800ヶ所に及び、1000を越える住居跡が存在します。
そして、縄文時代のみならず、奈良・平安時代以降まで使われました。時代が下るにつれ、床の位置が上がってきて、竪穴住居は消滅します。
しかし、土間、炉、掘立柱、茅葺き、芝棟、土壁など、竪穴住居で培われた様式・技術は、後の家屋に受け継がれていきます。つまり、竪穴住居は、日本の農家や民家の出発点であったと言えるのです。
「柱立ち」と「壁立ち」
話は変わりますが、竪穴住居では、柱と柱のあいだに横材が組まれ、その上に屋根がのっています。柱が屋根を支える構造であり、それが私たちには当たり前のように思われます。
しかし、外国では必ずしもそうではなく、壁を分厚く頑丈に作って、その壁が屋根を支える構造の方が主流だそうです。そこで、以下のように呼び分けることにします。
「柱立ち」 柱が屋根を支えている
「壁立ち」 壁が屋根を支えている
「柱穴探し」考古学
日本では、「柱立ち」の建物が主流です。木材が豊富にあることが影響しているでしょう。これによって、窓が多く、風通しのよい住居を作ることができます。壁の厚さは無視できるほど薄くなります。
日本の考古学の遺跡発掘は、まず「柱穴探し」から始まるそうです。柱を立てるために掘った穴の配列を調べ、建物の輪郭を決定します。
「壁探し」 考古学
これに対し、外国では、分厚い石の壁や日干しレンガで作られた住居が主流だそうです。周囲の壁を積み、屋根だけは木材を渡し、その上にまた土を載せるという形で家を作ります。
壁の厚みは50センチほどになることもあり、壁をくりぬいて収納スペースを作ったり、暖炉を作ったりすることができます。柱はなくても構いません。
ですから、これらの地域の遺跡発掘は、「壁探し」から始まるということです。
参考)『遺跡が語る日本人のくらし』佐原真著
あさのは塾便り::本・映画など | 04:26 AM | comments (x) | trackback (x)