2025,11,30, Sunday
星と言えば、美しいものの代表格ですね。凍てついた夜空を見上げると、澄んだ空気を通して、予想以上に多くの星が瞬いています。NASA(アメリカ航空宇宙局)のウェブサイトにとべば、宇宙軌道上の望遠鏡で取られた美しい写真を見ることもできます。
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星はまた、静的なものとして空に張り付いているだけではなく、途方もないダイナミズムを背負っています。
たとえば、広大な宇宙においては、銀河(星の集まり)同士の衝突という現象も珍しいものではないそうです。
私たちの太陽が属する銀河系も、アンドロメダ銀河と近づきつつあり、40億年後には両者の衝突・合体が始まるだろうと考えられてきました。
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銀河系は、2000~4000億個の恒星からなり、直径10~20万光年の大きさがあります。
他方、アンドロメダ銀河は約1兆もの恒星からなる銀河で、直径は22万光年、地球からは約250万光年離れています。
こんな数字になると、感覚がマヒしてしまって、想像のしようもありません。
(ちなみに、アンドロメダ銀河は、条件がよければ肉眼でも見られ、満月の5倍ほどの大きさの、ぼうっとした広がりに見えるようです。)
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かつて、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』というSF小説には、この銀河の衝突が描写されていました。
多くの恒星がギラギラした光で夜空を覆い尽くす光景は、子ども心に強烈な印象を残したものです。
★☆★☆★
さて、映画『ブレードランナー』(1982年アメリカ)の最終シーンでは、死にゆくレプリカントが宇宙の美しさについて語ります。
「おれはお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船やタンホイザー・ゲートのオーロラ…」
確かに、この宇宙は、人間が見ることもかなわない、美しく荘厳な光景に満ちているのでしょう。それらは、人間に存在さえ気づかせぬうちに、生成消滅を繰り返します。
★☆★☆★
ところで、一般に芸術作品とは、鑑賞者の存在を前提として創作されるものだと思います。何かを訴えかける行為は、受けとめる存在があって、初めて完結するという気がするからです。
それでは、宇宙の美、自然の美の場合は、いったいどうなのでしょう。美を受けとめる存在は、あらかじめ前提されているのでしょうか。
★☆★☆★
もちろん、宇宙や自然は、人間の登場に先立って存在しています。全宇宙の美は、人間のために準備されていたなどと言い出すなら、自己中心的にもほどがあるでしょう。
では、問いを変えて、なぜ人間の心は、宇宙を美しく感じるように作られているのでしょう。
あるいは、美という感覚は、人間の心の内にしか存在しないものかもしれません。だとすれば、なぜ人間は、宇宙には美があふれているという錯覚を持つことができるのか。
★☆★☆★
アリのようにあくせく働くという言葉がありますが、人間はアリと違って、生きがいを求めるし、生きた証を必要とする。
生きることに意味を求めるなら、死ぬことにも意味を探さざるを得ない。人間は死を是として、淡々と受け入れることはできません。
何の不自由もなく、幸せに暮らしてきたものにも、人生はいつか牙をむく。思いがけないときに、足下に深淵が口を開けることもある。
★☆★☆★
前出の映画に出てきたレプリカントは、遺伝子工学によって生まれた人間の複製品であり、彼らは人間を憎みながら、人間になろうとしています。
生と死の意味を探りはじめたとき、彼らは宇宙の美の受け取り手の役割を担うことで、初めて自らの存在意義を確信できたのではないでしょうか。
美を感じることができるなら、それは自らの存在の意味を見出しつつある証拠ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
他方、アンドロメダ銀河は約1兆もの恒星からなる銀河で、直径は22万光年、地球からは約250万光年離れています。
こんな数字になると、感覚がマヒしてしまって、想像のしようもありません。
(ちなみに、アンドロメダ銀河は、条件がよければ肉眼でも見られ、満月の5倍ほどの大きさの、ぼうっとした広がりに見えるようです。)
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かつて、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』というSF小説には、この銀河の衝突が描写されていました。
多くの恒星がギラギラした光で夜空を覆い尽くす光景は、子ども心に強烈な印象を残したものです。
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さて、映画『ブレードランナー』(1982年アメリカ)の最終シーンでは、死にゆくレプリカントが宇宙の美しさについて語ります。
「おれはお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船やタンホイザー・ゲートのオーロラ…」
確かに、この宇宙は、人間が見ることもかなわない、美しく荘厳な光景に満ちているのでしょう。それらは、人間に存在さえ気づかせぬうちに、生成消滅を繰り返します。
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ところで、一般に芸術作品とは、鑑賞者の存在を前提として創作されるものだと思います。何かを訴えかける行為は、受けとめる存在があって、初めて完結するという気がするからです。
それでは、宇宙の美、自然の美の場合は、いったいどうなのでしょう。美を受けとめる存在は、あらかじめ前提されているのでしょうか。
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もちろん、宇宙や自然は、人間の登場に先立って存在しています。全宇宙の美は、人間のために準備されていたなどと言い出すなら、自己中心的にもほどがあるでしょう。
では、問いを変えて、なぜ人間の心は、宇宙を美しく感じるように作られているのでしょう。
あるいは、美という感覚は、人間の心の内にしか存在しないものかもしれません。だとすれば、なぜ人間は、宇宙には美があふれているという錯覚を持つことができるのか。
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アリのようにあくせく働くという言葉がありますが、人間はアリと違って、生きがいを求めるし、生きた証を必要とする。
生きることに意味を求めるなら、死ぬことにも意味を探さざるを得ない。人間は死を是として、淡々と受け入れることはできません。
何の不自由もなく、幸せに暮らしてきたものにも、人生はいつか牙をむく。思いがけないときに、足下に深淵が口を開けることもある。
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前出の映画に出てきたレプリカントは、遺伝子工学によって生まれた人間の複製品であり、彼らは人間を憎みながら、人間になろうとしています。
生と死の意味を探りはじめたとき、彼らは宇宙の美の受け取り手の役割を担うことで、初めて自らの存在意義を確信できたのではないでしょうか。
美を感じることができるなら、それは自らの存在の意味を見出しつつある証拠ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
あさのは塾便り::本・映画など | 06:42 PM | comments (x) | trackback (x)


