十津川人の生き方


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 奈良県の十津川村は想像力をかきたてるところです。この村は県の面積の5分の1近くを占める大きさで紀伊半島の最も山深い位置にあり、千メートルを越える山々が60ほども連なります。

 かつては人の行き来もままならぬ地域だったのですが、日本史にはしばしばこの地名が顔を出します。まずは『新十津川物語』(川村たかし作)から引いてみましょう。

 「村は貧しかった。それでいて京都に政変がおこれば、男たちは刀をぶちこみ槍をかいこんで、すっとんでいく。天皇を守るためだった。南北朝のときもそうだったし、明治維新のときもそうだった。

 報酬は初めから当てにしていない。都の騒ぎが終われば、さっさと山の中へ帰ってきた。気位が高く、にわかに強力な野武士集団として団結してしまう。」


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 彼らはただの庶民ではなく、郷士と呼ばれる武士と農民の中間的存在でした。672年、壬申の乱で天武天皇が挙兵したとき大きな手柄を立て、その功績によって十津川は諸税を免ぜられたと言われます。その特権は秀吉の太閤検地を経て徳川の治世下に至るまで引き継がれました。

 周囲と隔絶していたため独特の文化や気風を持ち言葉のアクセントも東京式、ふだんは農業や林業で生計を立てていますが、名字帯刀を許され暇があると刀を磨き槍を研いでいる。

 武勇に長けプライドが高く好んで天下国家を論じ、一朝事あらば押っ取り刀で都に駆けつけたのです。

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 古くは神武天皇の道案内をした八咫烏(やたがらす)が祖先を指していたかもしれないと十津川村のホームページは書いています。

 そこまで遡らずとも先ほどの壬申の乱しかり、平家の落人伝説もあり、南北朝の騒乱時には南朝方、大坂の陣では徳川方と歴史の節目で一役買っています。幕末には勤王の志士たちと連絡を取り合い官軍にも加わわったのです。

 彼らの歴史には自己主張があり、一種の清々しさを感じます。都から離れた峻険な山間に住みながら国家の大事から目を離さず一家言を持ち必要とあらば即行動に移す。その気性や生き方には何かしら心惹かれるものがあります。

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 1889年(明治22年)8月、強烈な台風が四国から若狭湾へと吹き抜け、和歌山、奈良に甚大な被害を及ぼしました。8月19日に田辺で降水量1時間169.7ミリを記録。今日気象庁が定義する「猛烈な雨」が1時間80ミリ以上ですから、とんでもない量の雨が降り続いたことになります。

 大量の雨は山の斜面に土砂崩れを引き起こし、崩れた土砂は川をせき止めて湖を作り、そこにまた水が流れ込んで再び決壊し、こうして多くの山津波が発生しました。せき止め湖の数は53に上り、地形そのものを変えてしまうほどの大災害だったのです。

 この十津川大水害で、人口12,862人のうち死者168人、家屋17%が全壊、水田50%、畑20%が流亡しました。村で生活を立て直すことが困難な2,489人は政府の方針に従い、数ヶ月後に北海道石狩平野に移住します。このとき移住した人々がつくったのが現在の新十津川町です。

 慣れない寒冷な地域で、大木が生い茂る未開の大地の開拓に取り組んだ苦闘の記録は前掲の物語に詳しく書かれています。人間を襲う自然災害の激しさ、恐ろしさ、いったんはそれに打ちのめされても再び立ち上がる人々の強さには目を見張ります。

参考) 『十津川出国記』 川村たかし著
あさのは塾便り::本・映画など | 07:37 AM | comments (x) | trackback (x)

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